(話は前回から続く)
だとしたらもし帰る地図を、帰る船を、再び手にすることができたら、――
*
もう一つ、頭の体操をしてみよう。
現在のこの、世界を照らし出す光。私たちを映す光。地球が放った光は、宇宙を旅して進んでいく。
今からちょうど1年後には、光は地球の1光年先の、里程標を過ぎるだろう。
もしそのときそこに、こちらに向かって望遠鏡をかまえる者があれば、1年前の――つまりは現在の私たちの姿を、覗くことができるはずだ。
だとしたら、ちょうど同じように。
たとえば30年前。私たちは若く、まだ誰も亡くしてはいなかったあのころ。
彼らが放った光は、今のこの地球から、30光年の彼方にある。
あのころの私たちは、確かに今そこにいるのだ。
もし帰る船があれば――もし今、私たちが時を置かずに、そこに渡ることが可能なら。ふたたび愛する者たちと、まみえることもかなうだろう。
時間の経過と空間の移動が、まったく同じ意味をもつような、不思議な次元が確かにそこにはあるのだ。
*
人は言うだろう。
光となって伝わるものは、ただこの世界にまつわる、情報にすぎない。
望遠鏡の向こうに覗けるのは、もはや何の実体も伴わぬ幻であり、影絵でしかないと。
だがそれは、きっとそうではないのだ。
考えてみたまえ。
たとえば、コンピューターゲームの中の世界。そのキャラクターたち。
それらは物質的な存在とは違う。ただのデータの集積にすぎないと、私たちは感じている。
確かに私たちにとっては、それはそうだった。
だがしかし、当のゲームの中の人物にとっては、一体どうなのか?
ゲームの中の人物にとっては、むしろゲームの中の宇宙こそが、現実だった。
彼らにとっての「物質」で作られた、実体の世界。――そしてむしろ、ディスプレイの外から覗いている私たちの方が、「虚」の存在に思えているのではないか。
虚と実を、現実と想念を分けるものは、ただ内か外かの区別にすぎない。
それぞれの位相の違いが、同じ幻にすぎないものに実感を――「物質」のよそおいを、与えているのだ。
私たちの住むこの世界も――私たちが現実と呼び、物質と呼んで聖別するこの現実世界も、その実無数の情報のかたまりが結んだ、虚像にすぎなかった。
だとしたらそれは確かに、光とともに宇宙の空間を伝っていく。時を旅することができるのだ。
だとしたら。だとしたら光が届いたその先に、本当に今の私たちがいるのだ。――
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だとしたら光が届いたその先に、本当にあのころの彼らがいる。――
私たちが亡くした者。そして悼む者。
消え果てたと嘆いたそれらは、確かに今、彼方のそこにいた。
もし私たちが、そこに渡ることが可能なら。ふたたび愛する者たちとまみえ、語らうこともかなうのにちがいないのだ。
もちろんそのためには、光を追いかけなければならない。光に追いつき、光を追い越す必要がある。
そんなことはありえない。光速を超えた移動は不可能だ。――確かにかつて、物理学者はそう言った。
だが今では、それはけっしてそうではないのだ。
学者たちのいくたりかは、今ではこう主張する。
宇宙にはワームホールという、抜け道のようなものがある。その近道を通って先回りすることで、光を追い越すこともまた可能なのだ、と。
もちろんその先の議論は、もはや私の範疇ではない。彼らの言い分が、正しいかもわからない。
だがもしも、そうだとしたら。
あのころに帰る船を手にすることもまた、あながち笑止な絵空事とばかりは、言い切れないのにちがいない。――