世界は変えられる

世界は変わらないと言う。どう頑張っても、変えようがないと思っている。

それは私たちの、外側にあるもの。 不可塑な石質の素材で出来上がった、何か堅固な牢獄ひとやのようなものであると。――

もちろん自然世界は、冷厳たる物理の法則で、自律的に動いている。私たちの意のままに、形作ることはできるはずもない。
そういう意味での世界なら、確かに不変であり、不易である。抗いがたい宣告のように、私たちをはてしなく絶望させるものなのにちがいないのだ。
だがしかし、――

だがしかしどうして世界を、そんな私たちとは別の、外側にある何かととらえるのだろう?
もしそれが、人間世界という意味でなら。私たちの社会という意味での「世界」なら、答えはおのずとちがってくる。

それはただ、私たちの「あり方」であるにすぎない。
私が、あなたが、――私たちが居住まいを正せば、すべての邪悪は消え果てる。心が晴れれば、患みなやみはたちどころに失せて、楽園となる。
それがすべての「私」たちの、総和であるとすれば。「私」が変わることで、世界もまた変わる。変えることができるのにちがいない。

たった一つの言葉が。音楽が。英知が。人の心を揺さぶり、人を変える。
そして人を動かす。
そんな経験なら、いくらもしたことがあるだろう。
夜を徹して、書物を読みふける。その朝に、世界の彩りが変わって見える。人生の転機となる。――
そしてもし、そうして一人の「私」を変えることができるなら、どうしてすべての「私」たちにも、同じことが起きないことがあろうか?

これまでにも確かに、そんなためしはあった。
十字軍は、はるかな地を目指した。誰もが革命のためにった。
第三帝国の夢を追った。コミュニズムの熱狂が、世界を覆った。
みんな同じ原理だ。言葉が世界を変えたのだ。

もしそのすべてが、ただ人を惑わして終わったとすれば、英知と思えたものはその実、悪魔のささやきにすぎなかったのだ。
あるいは、ただはかなく終わったとすれば、言葉にはまだ力が足りなかった。
天使の言葉に、かつ力が満ち溢れていた例は、少なくとも今はまだない。
だがこれまでにそれがなかったとしても、どうしてこの先も、ないと言い切れるだろう?

もし悪に注がれたのと同じだけの才能が――天才がそこにも用いられたら。
そんな言葉を聞ける日も、きっと来るのにちがいない。
もちろん私自身には、そんな才覚はかけらもない。
だがもしキリストにはなれなかったとしたも、キリストのために道をそなえたヨハネくらいには、なるだけの覚悟があるのにちがいないのだ。……