自由意志とは(1)

 物質世界は、物理の法則が統べている。
 そこには原因と結果の、一対一の対応がある。

 一つの原因は必ず、たった一つの結果を生む。
 あるいは一つの原因のセットには、たった一つの、結果のセットが対応する。

 原因となるある状況が、次の瞬間に、結果となる新しい状況を生む。
 すると今度は、その新しい状況が原因となって、次のまた新しい結果を生む。
 結果であったものが、次には原因となりながら、玉突き式に、因果の連鎖が無限に続いていく。
 その連鎖を一つずつたどっていくことで、無限の未来まで、予測することもできるはずだ。

     *

 それがビックバンなのか、神の創世なのかは知らない。
 いずれにしてもその、この世の始まりこそが、最初の原因であった。

 その最初の原因が結果を生み、今度は結果が原因となってまた新たな結果を生みながら、すべての未来が演算された。
 その最初の世界に、大元の、因果の種子があった。種子はそれ自体の、自律の論理によって展開していく。そのようにして、その後のすべてが開顕 したのだ。

 だとしたら、だ。
 その世界の始まりに、もはやすべては決まっていた。
 現在のこの宇宙の姿も。世界の今のありかたも。
 まだ計算が終わっていなかっただけで、そうなるはずの答えは、もう一つに定まっていた。
 問題を出した先生には、本当はもう、全部わかっていたのだ。

     *

 宇宙の創生のその瞬間に、未来永劫に至る道筋は、すでに定まってた。――
 確かに、そういうことになる。
 この世が本当に、ただ塵や芥や土埃の、寄せ集めにすぎないものであれば。
 物質世界の、因果の連鎖を超越した、何かの介入がそこにないかぎりは。

 もちろん往時、私たちは健やかに信じていた。
 たとえば「神」のような、何か物界を超越した、霊的な存在があって。その見えざる手によって、流れは自在に変えられる。
 少なくとも、私たち人間の精神こころは、塵芥とは違う。それは神の似姿であり、これもまた物界のくびきを離れて、自由に意志することができる。
 選び、行動する。働きかけ、変えることができる。
 だとしたら何一つ、決定された未来などありはしないのだ。

 だがそれから時が流れ、誰かが「神は死んだ」と叫んだ。
 科学者たちは、脳の秘密を解き明かした。
 私たちの精神なるものも、ただ脳の中の物質と電流の作用の、結果にすぎないのかもしれない。

 だとしたら私たちも思いもまた、あの悲しい因果律に従うしかない。
 自由意志と呼ばれていたものも、ただの虚構であり、錯覚であるにすぎない。
 私たちは何一つ自在に選ぶことも、変えることもできない、ただの操り人形にすぎないのだ。

 そうしてはてしない、無力と諦念が、今私たちを捉える。――

     *

 自分もまた、そんな悲観に異論はない。
 宇宙の今の有様は、138億年前には、もうすでに決まっていた。
 人間の社会だって、誰の努力のかいもなく、初めからこうなるように出来ていたのだ。
 そしてまた自分の人生もまた、いつも運命のなすがままに、弄ばれるだけだ。――

 自由の意志なんて、かけらもない。
 意志するもしないも、物界の法則の定めるままに、とっくの昔に予言されていた。
 ユダがキリストを裏切ったのも、ただその予言が「成就せんがためなり」(マタイ伝26・56)、というのは本当なのだ。

 だがしかし、そうして考えを推し進めていくと、やがて一つ大きな壁にぶち当たる。
 そうだった。
 もし自分の思弁のすべてが、脳内の物質の作用にすぎないとしたら。電気の流れが見せた、ただの幻影だとしたら。
 自分が心につぶやき続ける、セリフのすべてもまた。台本に書かれた通りの、独白にすぎないことになる。
 己の無力をこうして嘆くことも、あるいは嘆かないことも、太古の昔に定められた筋書きの一つなのだ?

 そんな考えには、何かどうしようもない、違和感がある。
 自分は圧倒的な実感をもって、こう断言できる。それだけは、絶対に違う。
 私たちに、行動の自由はない。意志の自由も、選択の自由もない。ただ一体の傀儡くぐつとして、定められた運命のままに生きるだけだ。
 だがそこには、いわば呻吟の自由のようなものがある。
 すべてが定められた中でも、なぜか若干の、余白のようなものが残されていて。私たちがそこで抱く感懐だけは、けっして縛られてはいない。
 そのときに私たちが悲しむことも、また悲しまないことも、私たちの意のままの選択にかかっているのだ。

 その「余白」とは、正確にはどのようなものなのか。その正体は、やがて考察することになるだろう。
 だが少なくとも、そのようなものは確かに存在して、私たちは私たちの感懐を選び取ることができる。
 私たちは運命を拒むことも、抗うこともできない。だがその事実を前にして、悲嘆の涙に暮れるのか、受け入れて心の安寧を得るのか。どちらを選ぶかは自在なのだ。

 だとしたら、そんな心の安寧を得るためには、一体どうしたらよいのか?
 そのための方法を哲学することは、きっとなにがしかの、意味があることなのにちがいない。――