自由意志とは(2)

 私たちは誰もが、神々がしるした、台本通りの生を生きる。

 もちろんこの場合の「神」とは、けっして〇〇教と呼ばれるような、宗教たちの説く神ではない。
 それはただ、宇宙のすべてをかつて創り、現在いまも動かし続ける根本の原理――あくまでも仮に、その名を神と呼んだにすぎない。
 もしあなたが物理の法則を、唯一絶対の原理とあがめるなら、それがあなたの神なのだ。
 したがってその意味で、「神は存在しない」ということはない。「神は死んだ」と叫ぶことは、おそらく道理にかなわない。

 私たちは誰もが、神々が記した台本通りの生を生きる。――だとしたらそこには、いかなる自由も存在しえない。
「自由」という言葉を文字通りに読めば、「自らによる」となる。
 他者のめいに由来するのではなく、自分自身の意志から来る、選択と行為を表す。
 私たちが、運命に操られる傀儡くぐつにすぎないとしたら、何一つ自らによるものはない。それこそ呻吟の自由以外、いかなる自由の可能性も、残されていないことになる。……

 それは確かに、何というおそろしい結論だろう。
 だがしかし。
 だがしかし、その実たった一つだけ、この悲劇的な思考を回避する方法がある。その逆に、これ以上ない完璧な自由を、実現できる道筋があるのだ。

     *

 それは私たち自らが、神になることだ。神であることだ。
 それそそうだろう。
 もし私たち自身が神であるならば、神の意のままに振る舞うことは、すなわち自らによることになる。
 そこには絶対の自由が、必ず具現される。

 こんな言い方はとてつもなく、奇異に聞こえるかもしれない。
 確かに、この深淵な思想を本当に理解するには、一巻の書を読みぬく必要がある。(参照
 だがしかし、もしこう言い換えたら、どうだろう?
 私たちは、神に思いを重ねることができる。神と心を、通わすことができる。
 その意図を解し、その意志をうべなうことができる。
 そのとき私たちは、私たちの運命を、安んじて受け入れる。悦ぶことさえ、できるにちがいない。
 だとしたらそのとき、私たちの心は本当に、自由になるのにちがいない。――

 たとえば不幸のどん底にあえぐ少女は、ときに自らを、悲劇のヒロインに擬する。そうすることで、心の安らぎを得ることができる。
 人生のドラマのただ中を、そうして必死で生き抜きながら。そのとき、心の中のもう一人の自分が、一歩退いた舞台の袖から見つめている。
 舞台で演じる役者自身が、同時に芝居の書き手となり、芝居を見つめる観客となる。
 芝居の書き手は、もちろん「神」だ。
 そうして「もう一人の自分」が舞台を見つめるとき、少女は神に思いを重ねる。神であることさえ、可能になるのにちがいない。

 そんな「もう一人の自分」の、――「神」の眼で眺めたとき、目の前の苦悩は、苦悩であることをやめる。自らの悲運を、楽しむことさえできるようになる。
 それはそうだろう。
 軽薄な喜劇の筋立てよりは、悲劇の重厚が美しい。今のこの涙の結末の方が、はるかに麗しく、それゆえに望ましいものに感じられるのだ。

 悲劇だけではない。
 退屈で凡庸な人生もまた、私小説の一ページと捉えたときには、不思議な輝きを帯び始める。
 そのとき私たちは、私たちの人生の書き手に思いを重ねる。抗いがたいはずの、運命を楽しむ。
 そのとき私たちは、初めて自らによる。絶対の自由を手に入れることが、かなうのにちがいない。

     *

 宇宙のすべてかつて創り、現在も動かし続ける根本の原理。それが神だ。
 天が下の万物の織りなす、ドラマの全体をたえず思い、浮かべるもの。――

 だがしかし私たちの精神こころもまた、何か物を思い、浮かべることができる。
 だとしたらそこには、確かにいくらかの、神との相似がある。

 コンピューターのゲームの作者は、ゲームの世界に対して「神」だ。
 私たちは私たちの想念に対して、創造主として振る舞う。
 だとしたらそのゲームの世界の――想念の世界の境界を、はてしなく広げていき、宇宙の全体と重ねることができれば、私たちは本当の「神」となる。神であることが、可能になる。

 私たちの精神は、神の似姿だ、と誰もが言う。
 だがそれはただ、「似ている」だけではない。それは神そのものなのだ。
 少なくともそれは、神の局部だった。
 この世のあらゆるものが、あらゆる意識体がその思いをあわせたとき、それは限りなく「神」に近づく。
  この玄妙な原理を本当に理解するには、確かに一巻の書が必要である。だがおぼろげなイメージだけなら、つかむことができると思う。

 私たちが、身の回りのちっぽけな欲得や、喜怒哀楽にかまけるのをやめて。世界の全体に思いを致すとき。
 私たちは「神」となる。少なくとも神を知り、神の意図と思しきものを、つかみ取ることができる。
 そのとき私たちは、神と一つになる。

 避 さりがたい宿命と思えたものは、そのときには美しい悲劇の筋書きとなる。
 私たちはその趣旨を感得し、物語を悦ぶことができる。
 だとしたらそのときには、すべてが我が意を得る。自らの意図に、よるものとなる。
 つまりは「自由」となるのだ。

 そのときには、確かに絶対の、自由の意志が具現する。
 傀儡にすぎぬと嘆いた呻吟と、苦悶はたやすく乗り越えられる。
 私たちはただ心やすらかに、今では自らも望む死地へと、赴くこともかなうのにちがいない。――