なぜ情報は「光よりも速く伝わる」か――アインシュタインの誤謬

 最近科学の分野で、「量子もつれ」という言葉をよく耳にする。
 中途までは、このサイトの受け売りである。

 いわく、粒子が互いに「量子もつれ」の状態にあるとき。
 たとえば観測によって、粒子Aが赤であることが判明すると、粒子Bは青になる。
 粒子Aが青であれば、粒子Bは赤になる。まるで負の同期のような、そんな相関が存在する。

 粒子Aの情報が、距離に関係なくたちたまち、粒子Bに伝わっていく。
 そんなふうに見えるのだ。
 たとえ両者が何千万光年離れていようが、問題はない。伝達は瞬時に起こる。

 それでは情報が、光速より速く伝わることになってしまう――というので、かのアインシュタインは「不気味な遠隔作用」と呼んで、眉に唾を付けた。
 というより、そんな言い回しで揶揄しながら、「量子もつれ」の存在を否定したのだ。

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 と、ここまでがサイトの受け売りである。

 天才は既存の常識の枠組みを、次々と壊していく。
 だが当然のことながら、天才にも限界がある。
 たとえばアインシュタインが、ブラックホールの存在を、あくまでも否定していたように。 

 そしておそらく、この「量子もつれ」に関しても、アインシュタインはその因習的発想を、逃れることができなかったのだ。

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 確かに、この現象をただ情報の伝達として捉えれば、ありうべからざる不条理だろう。
 光速を超える移動など、物理学では認められていないのだから。

 だがしかし、ここは固陋な思い込みを、きれいさっぱり捨て去って。
 世界が初めから、二つあったと考えたらどうだろう?

 もともと「粒子Aが赤であり、粒子Bが青である」世界と、「粒子Aが青であり、粒子Bが赤である」世界の、二種類が存在している。
 観測者が「粒子Aが赤である」と認識した瞬間、彼は後者ではなく、前者の世界に足を踏み入れる。

 どんなに遠く、距離が離れていようとも、その瞬間「粒子Bは青」となる。
 その世界では、もともと「粒子Bは青」であったのだから、それか当たり前なのだ。
 正確にはそれは、青に「なった」のではない。情報が、伝わったわけではない。ただ観測者の目にそう映るだけで、本当は初めから、青で「あった」だけなのだ。――

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 多元宇宙。マルチバース。
 私たちのなじんだこの宇宙とは違う、別の宇宙が存在する、と考えること。
 今ではSFなどで、定番の設定となってしまったそんな発想も、別に荒唐無稽な夢想ではない。

 哲学的に考えた場合も、何ら違和感がない。
 たとえば自分が、今朝朝食をとって、散歩に行ったとする。
 だがもちろん、そこにはそうでない可能性もあったのだ。
 朝食を食べるか、食べないか。散歩に行くか、行かないか。
 その組み合わせで、全部の四通りの選択肢が――四つの違った宇宙があり、自分はその中の一つを選び取ったのだ。

 否。「選び取った」というのは、聞こえがよすぎる。
 有限の存在にすぎない人間は、四つの宇宙のすべてに、同時に存在することはできない。
 その不如意ゆえに、ただ一つの宇宙の中に追いやられた、限局され 幽閉されたのだ。――

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 もし全能の神があるとしたら、全能であるがゆえに、すべての可能性はたちまち具現してしまう。思念はすなわち、成就して現実となる。
 だとしたらもちろん、神は四つの宇宙のすべてに、同時に棲まうことができる。

 だがしかし、もしそうだとしたら――別に「全能の神」なんて持ち出さなくても、話は変わらないのではないか?
 食事をとるか、とらないか。散歩をするか、しないか。四つの宇宙が確かに存在し、今の自分はその中の一つに、押し込めやられた。
 確かに自分の前にあった四本の枝道の、三つは進入禁止になった。
 だがそれらもまた、自分の傍らの、目には見えないどこかで、今もまた確実に存在を続けているにちがいない。

 もしそんなイメージになじんでいれば、量子もつれのエピソードだって、すんなりと受け入れることができたにちがいない。

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 平行宇宙。パラレルワールド。
 ただ観念を、弄んでいるだけではない それは本当に、存在する何かだった。

 それ女子供の好む、ただのファンタジーではない。
 ジブリ作品のアニメの、お手軽な仕掛けではない。 

 時にはコスプレなんぞをして歩き回る、アニメ好きの少女たちは、実に頭が悪そうに見える。
 だがしかし、ことこの点に関してだけは、多元世界を素直に信じる彼らの方が、実は天才アインシュタインよりもはるかに賢かった。
――そんな愉快な倒錯が、確かに成立するのだ。