もう一人の自分(1)――演劇

 宇宙という名の大伽藍で演じられる、壮大な野外劇。
 そこでは無数に配された役者たちが、それぞれの持ち場で、ただ思い思いの科白を語っている。
 ある者は天使の翼を身につけ、ある者は死に神の衣装を纏い、あるいは喜劇が、あるいは悲劇とおぼしきものが行われる。

 そうして彼方と此方の、少しも相渉ることのない舞台に、何か共通の演目を認めることは難しい。
 だとしたら、これはやはり混沌なのか?
 壮大な芝居のように思えたものは、その実ただの祭りの賑わいのようなものにすぎず、そこには本当は何の主題も、意味さえも隠れてはいないのか?
 だが、否。それこそが確かに「美」と、「豊饒」のドラマなのだ。

 統一の筋立てなど、見つからないのも宜なるかな。そんな無秩序なまでの「多様性」が、かえってすべての主題だった。
 数多の人物たちが演じる、数多の物語。その仕草と表情の尽きせぬ味わい。天使と死に神の、悲劇と喜劇の不条理な対置。――
 そうしてすべての因子と、矛盾を渾然と呑み込んで。舞台の上に繰られた多産な彩りこそが、確かに芝居の意味であり、魅力であるのにちがいない。……   

     *

 確かに、すべてはそうして、演劇に譬えることができた。
 だがしかし、もしそうだとしたら、――もしすべてが演劇だとしたら、一体この私たち自身は、その何なのか? 

 それはもちろん、役者ということだった。宇宙という名の野外劇に配された、その無数の役者たち――確かに、劇の主題が「豊饒」であり「多様性」である以上、舞台の上の頭数は、そうして多ければ多いほど嬉しいのだ。
 私たちの生きるこの人生は、壮大な宇宙のドラマの、それぞれの一幕だった。それを演じることはすなわち、ドラマの全体の豊饒の美を増し、それを生きることは、きっと目に見えないどこかで、宇宙まるごとの輝きにつながっている。……

 確かに、そんなふうに考えれば、私たちの懊悩の多くは乗り超えられる。
 例えば私たちの人生は、ときにあまりに災厄に満ちていた。こうしてただ、苦悶の日々に耐え続けることに、もはや何の意味もないように思える。――だがしかし、もしもすべてが舞台の上の出来事だとしたら、それはそうではない。
 もとより芝居に、涙は付き物だった。そこに宇宙という名の、豊饒のドラマが繰られるためには、その筋書きの半分は、むしろ悲劇の筋書きである方が自然なのだ。
 だとしたら、何のためらいも、疑問も要らない。役者はただ誇らかに、その悲劇の役所を演じきるべきなのだ。……

     *

 あるいは私たちの人生は、しばしばあまりに凡庸だった。何一つ輝きのない日々を、これ以上繰り返すことに、はたしてどれだけの値打ちがあるのか?――
 だがしかし、そうしてすべてが演劇であるとしたら、望まれぬ役者など、もとより一人もありはしない。
 二枚目の、主役ばかりではない。端役の地味な演技もまた、無数に芝居をもり立てていた。

 そればかりではない。
 主役の物語の中では、確かにそうして端役を演じながら、役者は同時にまたもう一つの、彼自身の物語を演じている。
 いわば「端役の人生」という、そのもう一つの筋書きの中では、もちろん今度は彼こそが、その主役だった。
 そして先刻まで確かに主役であった者は、そこではその実、もはやただの端役であるにすぎない、――そんな共役の関係が、いつでも成り立っているのだ。……

 いわば「端役の人生」という、そのもう一つの筋書――
 否。
 そもそもこの芝居の主題が「多様性」である以上、本当は主役など、どこにもありはしない。むしろ舞台に配された無数の役者たちの、そのすべてが初めから主役なのだ。……
 そうだった。そうしてすべてを演劇と考えるなら、凡庸の人生にも悲嘆の一生にも、確かに何かしらの意味があった。
 ちょうど道端に咲く草の花にも「意味」があるように、何一つ豊饒の美の重みを担わぬものはないのだ。