もう一人の自分(2)――自伝を綴る少女

 そんなふうにすべての私たちが、豊饒の美を彩る、掛け替えのない役割を担っている。
 辛苦の一生も、悲劇を楽しむ観客の目を喜ばせ、凡庸の一生もまた、舞台の多様な彩りを作る者には、欠かせない対照となった。

 だがしかし、だとしたら当の役者自身にとってもまたそれはそうなのだ。
 舞台の上でひたすら演じ続ける役者自身も、もはやただの芝居の素材ではない。
 もし観客たちの目に、作り手の思いに自らを重ねることができれば。その心にも同じような悦びと平安が訪れるにちがいないのだ。

 それはあの、「もう一人の自分」というものと同じだった。
 そうだった。誰にでも覚えがあるだろう。
  私たちの心の内に住まい、たえず語りかける、あのもう一人の自分。
 ときに私たちを叱り、励まし、慰撫し。またときには聖霊の、ときには悪魔の声となって私たちを誘うもの。
 あるいはまた、鏡の向こうに映った苦み走った男の肖像に、ときにほくそ笑むのもきっと、このもう一人の自分だった。
 それは確かに、人生のドラマを必死で生き抜く私たちを、一歩退いた舞台の袖から見つめる何か。

 だとしたらその「何か」を、「自分」と呼んだとき。私たちもまた彼方の、新しい次元への手掛かりを、手に入れることができたのだ。
 それは舞台の上の役者たちが、同時に芝居の書き手となり観客となる、あの超絶の次元。
 造りたるものと造られたるものが思いを重ね、見る者と見られる者がひそかに合一する、――そんな宇宙の神秘を解き明かす魔法の鍵は、確かにそこらにあった。

     *

 本当に、そんな手掛かりを辿っていくことで、誰もが神と宇宙の奥義に近付くことができた。
 例えば、どん底の不幸に喘ぎながら、同時に悲劇のヒロインを気取るあの少女。――彼女もまた心の中に、この「もう一人の自分」を魁偉なまでに育てていた。
 それはもはや慰撫し、励ますばかりではない。むしろ憂いに満ちたその横顔を娯しみ、喝采さえするのだ。

 確かに、そうしていったん演出家の、――観客の眼から眺めてしまえば、目の前の苦悩は苦悩であることをやめる。
 軽薄な喜劇の筋立てよりは、今のこの涙の結末の方がはるかに麗しく、それゆえに望ましいものに感じられる。
 そんな逆説の仕組みが、そこにはあった。

 少女はたえず、心の中に自伝を綴り続ける。
   ――平成年。高校教師の両親のもとに生まれる。
   ――駅に向かう道はいつになく遠く、道ばたのひいらぎが物憂げに風に揺れていた。……
 自分自身の人生を、その日々の一こまを、まるで作中の人物を見るように冷ややかに、遠くから眺めている。
 そうして私小説の一節に組み込まれてしまえば、悲嘆の人生も退屈の日々も、たちまち心楽しい、芝居の一幕のように映り始める。
 涙を喜びに変え、じゃり石を宝石に変じる魔法の仕掛けが、確かにそこにはあった。 

     *

 そうして一歩退いた中空から、自分自身を見つめ直すこと。
 心の内のもう一人の自分に思いを重ね、その視座からすべてを見つめ直す。――

 確かに、そのようにして私たちもまた、抜け出すことが可能になる。
 牢獄のように私たちを捕らえた、この存在の小箱を抜けて。その向こうの「もう一人の自分」となって、自在に宙に遊ぶことがかなうようになるのだ。

 それまでの演ずる者は、そのときには造り、眺める者となる。
 舞台の上に繰られた苦悶の人生も、退屈の日々も、そのときにはたちまち新しい意味と、輝きを帯びて見え始めるのにちがいない。……