もう一人の自分(3)――「造りたるもの」

 牢獄のように私たちを捕らえた、この存在の小箱を抜けて。その向こうの「もう一人の自分」となって、自在に宙に遊ぶ。――

 だがしかし、もちろん本当の超越は、さらにその先にあった。
 それはそうだろう。
 舞台の上で演ずる者は、本当はけっして、私たち一人だけではない。そこでは無数の同じような役者たちが、――無数の造られたる者たちが、それぞれの芝居を演じていた。
 だとしたら?
 私たちの「もう一人の自分」が、同時に「造り、眺めるもの」であるためには。
 それはただ「自分」であるだけでは、足りはしない。少なくともその向こうのどこかで、それらのすべてとも――すべての「自分たち」ともまた、関わっていなくてはならないのだ。

 つまりはもし本当に・・・、「もう一人の自分」に思いを重ねることができたなら。そこに俯瞰されるのは、このたった一つの、自分だけの人生ではない。
 個我という名の、存在の小箱を抜けたそこでは、すべての役者のすべての筋書きが、――否、それを言うなら千変万化の宇宙のすべての姿が、無限に開豁なパノラマとなって、映っていなければならない。
 だとしたら、それはやはり「神」ということなのだ。

 私たちの心の奥底で、私たちを見つめる「もう一人の自分」。
 そうして私たちを眺め、動かすそれは、同時にすべての私たちを眺め、動かすものでなければならない。
 壮大な宇宙の野外劇の、すべての筋書きを、同時に記すもの。
 かつて造られたるすべてのものを造り、今もまた造り続ける、あの「神」と言う名の根源の力なのだ。――  

     *

 私たちの心の中の「もう一人の自分」は、その実宇宙のすべてを見つめる「神」と同じだった。少なくとも、そのすぐ向こうのどこかに、「神」はいた。
 そしてもしそうだとしたら、――「神」が私たちの心の奥処と通じる何かだとしたら、それに思いを重ねることもまた、けっして難事ではないにちがいない。

 確かに、本当の超越はそこにあった。
 私たちが心の奥処の、「もう一人の自分」に気付いたとき。そしてその向こうの、「神」に思いを重ねたとき。
 獣のように地を這って生きる私たちの魂は、初めて天翔ることを学ぶ。
 そのときには、眼下に見えるのはただちっぽけな、自分自身の姿だけではありえない。先刻までは自分がその中に埋もれていた、大地の絵巻がそっくりそのまま、一望に収められるのだ。

 もちろんそこに描かれたのは、あの悪と破壊に満ちた世界であり、無益な営みを繰り返す、歴史であるにすぎないかもしれない。
 だがしかし、いったん造られたるものの次元を離れて、そうして彼方の眼から眺めたとき。すべてはもはや、同じようには映らなかった。
 悪であり、破壊であると思えたものは、その実新しい創造の始まりにすぎなかった。
 退屈であり、無意味であると思えたものも、また豊饒の野外劇の掛け替えのない因子なのだ。

 そのことに気付いた瞬間に、すべては彩りを変える。
 それまでは暗鬱にくすんで見えた世界が、今ではそのままの姿で、「美」の薄衣を纏って輝いていた。
 憂いにふたいだ私たちの心もまた、今では天が下のすべてを、あるがままに受け入れることがかなうのだ。
 それは確かに、まるで神がその宇宙を嘉し、いつくしむように。――

    *

 そうだった。
 心の中の「もう一人の自分」に思いを重ねること。舞台の上を生きる自分自身の姿を、同時に天上の、彼方の眼から見つめ直すこと。
 そのときこそ、造られたるものは初めて、造るものとなる。
 人が神を知り、神と一つになる法悦の瞬間が、待ち構えていたのだ。

 だとしたら、原始の宗教で、鏡が聖なるものとされたのもむべなるかな。
 確かに、およそ人が鏡というものを手に入れるまで、生きとし生けるものに、自らの姿を眺めることなどけっしてかなわなかった。
 それらはただ造られ、生かされ、見られるものであることに安んじて、日々の生をついばんでいたのだ。

 ただ人だけが、水の面に映る不思議の像に心を奪われ、鏡の仕組みを作り出した。
 あの鏡の仕組みを。――そしてそのときから、人はその心の中に、「自らを眺めるもの」を育てていった。それはただ容る、というばかりではない。鏡の前に立たない多くの時間にも、人はたえずどこかで、自分自身の有様を意識することを始めたのだ。

 だがそれは同時に、彼が新しい領域へ、片足を踏み入れたことでもあった。造られ、生かされ、見られるものの次元から、あの造り、生かし、見るものの次元へ。――
 だとしたら、人が眺めるのはもはや、そんな自分自身の姿だけではない。
 道端に咲く草の花を、空の青を、風の音を、――いわばすべての造化の妙を心の鏡に映して、いつくしむことを始めたのだ。
 それはまるで、すべてを造ったあのものが眺めるように。