(話は前回から続く)
さて、応用問題です。
ゼノンではないが、同じくらい有名な詭弁に「クレタ人は嘘つきだ」がある。
話は以下のように展開する。
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――あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったとする。
もしその発言通り、 クレタ人が嘘つきだとすると、今の彼は――このクレタ人は本当のことを言っていることになるから、矛盾を生ずる。
だがもしその発言とは逆に、 クレタ人が嘘つきでないとすると、今の彼は嘘を言っていることになるから、これもまた矛盾を生ずる。
一体彼の主張は正しいのか、それとも間違っているのか? そのどちらでもありえない? 真相は何なのか?……
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もはやお気づきのことと思うが、これもまた言語のトリックを用いた詭弁である。
「嘘つきだ」という言い回しは、前回の「しなければならない」と同じくあいまいで、玉虫色の表現である。
それはまず、「(ときどき、ないしは頻繁に)嘘をつくことがある」と解釈できる。通例は、その意味で使われるだろう。
だが極端に解釈すれば、「いつでも必ず嘘をつく」と言う意味にも、取れないわけではない。
件の逆説は、この二つの解釈を文章の途中で巧みにすり替えることによって、矛盾が生じたかのような錯覚を生み出しているのだ。
すなわち例のクレタ人は、あくまで「クレタ人は嘘をつくことがある」という趣旨を述べたのだ。
「嘘をつくことがある」ということは、嘘でないこともあるわけだから、今に限れば彼は本当のことを述べている。
別段、なんの矛盾も生じない。彼の発言は「真」なのだ。
それなのに詭弁の作者は、彼の主張を「クレタ人はいつでも必ず嘘をつく」と故意に曲解して、読者を煙に巻いているわけだ。いつでも必ず嘘をつくはずのクレタ人が、今正しいことを述べているというのは、矛盾ではないかと。
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ちなみにそのクレタ人が、初めから「クレタ人はいつでも必ず嘘をつく」と言ったとしたら、どうなるのだろう。
もちろんその主張は、「偽」である。
もし本当に「クレタ人はいつでも必ず嘘をつく」のだとしたら。クレタ人であるこの発言者の主張は正しいことになってしまい、「必ず嘘をつく」という前提と矛盾してしまう。
よって彼の持ち出した命題は、「真」ではありえない。――
こういう証明法を、背理法という。ちょっとした頭の体操です。
ちなみに「いつも嘘をつく」の否定は、「けっして嘘をつかない」(全部否定)ではない。
その否定は「いつも嘘をつくとはかぎらない」(部分否定)だ。
「いつも嘘をつく」は「偽」だから、嘘をついたり本当のことを言ったりするわけで、前段のクレタ人は、今はたまたま嘘のことを言っているのだ。
このあたりも論理も、誤解と混乱を招く原因なのかもしれない。
まあ、常識で考えてもわかるよね。
嘘つきと呼ばれる人たちだって、年がら年中嘘をついているわけではない。 その発言は全面的には信じられない、というだけであって、当然本当のことも言うのだ。
そもそも「いつでも百パーセント嘘をつく」なんてことは、そうそう容易にできることではない。自分の発言が真実と一致しないように細心の注意を払い、薄氷を踏むように生きなくてはならない。
もちろんその前提として、何が真実であるかを把握している必要があるから、並みの博識ではつとまらない。
クレタ人程度の知能の連中には、とうていかなう芸当ではないのである。
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と、そこまで罵倒しておきながら、クレタ人って一体どこの誰だっけ、と必死にネットで検索している自分が、いじらしくてならない(笑)――
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(話は次回に続く)