「ゼノンの逆理」と呼ばれる、一連のパラドックスがある。「アキレスと亀」「止まっている矢」などが有名だが、実はいずれも同工異曲なので、今回は「二分法」を取り上げてみたい。
その主旨は、以下のようなものである。
「陸上のトラックで、ある競技者がゴールに向かって走るとする。
ゴールにたどり着くためには、走者はまずその半分の距離の、中間点を過ぎなければならない。
だがその中間点にたどり着くためには、さらにその半分の距離の、1/4の地点を過ぎなければならない。
だがその1/4の地点にたどり着くためには、さらにその半分の距離の、1/8の地点を過ぎなければならない――というようなことが無限に続き、結局走者は少しもゴールに近づくことができない。……」
無論、屁理屈である。だがこの詭弁に、理路整然と反論するのは意外とむずかしい。
それゆえに一種の知的遊戯として――頭の体操として、古来から愛されてきたものである。
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この逆説には当然、様々な反論がなされた。複雑な数式を駆使したものなど、ネットにもたくさんころがっている。
だが自分はただ一点、「言語の操作」という観点から、分析を試みたい。
たとえば上記の記述を、次のように言い換えたらどうだろう。
「ゴールにたどり着くために、走者はまずその半分の距離の、中間点を過ぎる。
その中間点に着く前には、1/4の地点を過ぎる。
その1/4の地点に着くために、1/8の地点を過ぎる――というように移動はよどみなく行われ、ゴールに近づいていくのだ」
何のことはない。同じ現象を扱っているのに、言葉を少し入れ替えただけで、「不可能」の結論が「可能」に変わってしまった。
ということは「二分法」の逆説の本質は、数学的なものである以前に、この「しなければならない」という言葉の使用に、かかっていることになる。
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たとえぱある受験生が、進路指導の先生に「この大学に合格するには、死ぬ気で勉強しなければならない」と言われたとしよう。
その言葉を聞いて、諦めてしまう生徒ももちろんいる。だが逆に、それなら死ぬ気で勉強しよう、と決意する生徒もいるはずだ。
だからお前には無理だ、と引導を渡しているのか。それとも、だから頑張れよと、発破をかけているのか。――
つまりは「しなければならない」という表現自体は、本来きわめて中立的な語句である。
文脈次第で、そこに否定の含みを持たせることも、肯定のニュアンスを与えることも自在なのだ。
「しなければならないから、無理だ」なのか。「しなければならないから、そうする」なのか。いかようにも、解釈が可能なのである。
件の詭弁で言えば、そこに勝手に――無言のうちに否定の含意をちらつかせることで、読む者を「不可能」の結論へと誘導しているのだ。
それが証拠に、試しにその「しなければならない」を、肯定の気持ちを込めて読み替えてみよう。
「ゴールにたどり着くためには、中間点を過ぎなければらないから、まずは中間点まで走る。
その中間点に着くためには、1/4の地点を過ぎなくてはならないから、その前にまずそこまで走る。
その1/4の地点に着くためには、1/8の地点を――というように移動はよどみなく行われ、ゴールに近づいていくのだ」
今度は一転、まったく違った景色が見えてくる。
同じ無限でも 無限に何かか立ちはだかるのではない。何が立ちはだかろうとも、無限にクリアし続けていく。
そんな口調に切り替えるだけで、明るく前向きな――そしてきわめて常識的な記述に、変容するのである。
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「二分法」にかぎらず、ゼノンの逆理のすべてのバリエーションの、本質は共通である。
まずは有限の距離を、無限の点の集合である、と曲解する。
そこから「ハードルが無限あるから乗り越えることはできない」という結論に、誘導する手口なのだ。
有限の距離を、無限の点の集合と分析する――もちろんそのこと自体は、必ずしも不当な理解ではない。
だがしかし、そうして「無限」の概念を持ち込みながら、ハードルを乗り越える能力だけは有限のままに放置している。そこに詐術が存するのだ。
もしそこに無限のハードルがあるなら、ただ無限に乗り越えていくだけだ。
すべての運動は、もちろんそのようにして、行われているのだ。
(話は次回に続く)