真理なき時代に「事実もどき」をついばみながら

 alternative fact という英語をご存じだろうか?
 これもまた、日本語にはしづらい言葉である。alternative 「代用の」だから、「代替的事実」などと訳されるが、それでは意味不明だ。
 大ざっぱに言えば、「事実の代わりになるもの」「真実もどき」というような意味合いである。

 かつてトランプ米大統領の就任式で、実際には聴衆は閑散たるものであったにもかかわらず、「大群衆が熱狂的に迎えた」と伝えられた。
 その虚偽を指摘された大統領顧問(ケリーアン・コンウェイ)が、それはけっして嘘ではない、と反論したのだ。
 ――That’s an alternative fact.

 そのセリフを聞いた瞬間、背筋が寒くなったのを覚えている。何かあまりにも、時代の正鵠を射ているように感じられたからだ。

     *

 そうだった。
 何が真実で、何が真実でないのか。私たちはそれを、本当に知っているのだろうか?
 身の回りの限られたものなら、間違えようもない。
 昨日自分が何をしたか。家族はどうであったか。自分の学校で何が起こったか。――そんな実体験に基づく知識は、まず間違いなく真実だろう。よほどの天邪鬼でないかぎり、そのことを疑う者はいない。

 だがしかし、それ以外のすべてのものについては、一体どうなのか?
 私たちは地球が丸いという、「事実」を知っている。
 だがそれはただ、知っていると思い込んでいるだけで、そのことを身をもって確かめた人間がどれほどいるというのか。

 あるいはロシアが、ウクライナに侵略したと怒る。だがわれとわが目で、確かに何かを目撃したというのか?
 学校の先生がそう教えているから。多くの新聞やテレビが、それを報じているから。だからたぶんそうなのだろうな、と納得しているにすぎない。だとしたら 、すべてが私たちをたばかるフェイクである可能性も、完全には否定できないのだ。
 もちろん確実な証拠は、あるのかもしれない。だがそれを手にしているのは、ほんの一握りの人間だけなのだ。少なくとも私の手元にはそれがない以上、ただの伝聞にすぎないものを、真実であると言い切ることはとてもできない。――

 あるいはまた、どこかの国の大統領が、選挙は盗まれたとわめく。
 私はそれを信じない。だがそれは当人があまりにアホ面なので、たぶん嘘なんだろう、と判断しているだけだ。
 意外にも彼の方こそが、正義の人である可能性だって、けっして捨てきれはしないのだ。
 それはあくまでも情報源に対する信頼と、ごく生理的な嗅覚とで、真実らしさを嗅ぎわけているだけで、それを確かめるすべなど、本当は何一つありはしないのだ。

     *

 身の回りについての、数少ない確実な知識――もちろん動物たちなら、それだけで十分満ち足りて暮らすことができる。
 だが私たちは、そうではないのだ。
 自分自身の「生」を、意味有らしめるためには。もっとずっと広い世界について、宇宙についての物語が、絶対に必要なのだ。
 だから無数の「真実もどき」の中から、かろうじて信じるに足りそうなものを、信じたいものを選び取る。
 そうして手にした、ひょっとしたら毒入りかもしれない知恵の木の実を、それぞれの巣穴に持ち帰ってついばみながら、日々をやり過ごしているのだ。

 もちろんずっと遠い昔から、それはそうだったのだ。
 例えば私たちは、ただ教会の音楽の荘厳に打たれて、宗教の物語を受け入れた。
 たとえそこに、何の証しもなかったとしても、――それを糧として、矩として一生を生きることができた。
 そしてそれは、それでかまわなかった。すべては健全な心の機構であり、少しも異体ではなかったのだ。

 それはきっと、こういうことだったろう。
 そうしてそれぞれが、それぞれの真理をついばみながら。それでも私たちはまだ、すべての前提として、唯一無二の絶対の真実が、必ず存在すると信じていた。
 それはまだ・・見つかっていないだけで、それがどこかそこにあるということ自体は、疑いようがなかったのだ。

 だから誰もが、それを探し続けた。 一人一人が、それを求めて刻苦した。
 一旦は手にしたはずの解答にも、検証を怠らなかった。
 異論があるなら、互いに議論を戦わせた。論戦のための土俵が、確かにそこには設けられていて、ときには相手の主張に耳を傾け、ときには相手を説き伏せようと論理を尽くした。――

     *

 だが今のこの時代には、何かが根本的に違っている。
 すべてがあまりにも相対化された挙げ句、そこでは 絶対的な真理に対する、健やかな信頼が失われてしまった。
 本当の真理など、初めからありはしないのだから、探求も討論も意味はない。
 ただお手軽な、お気に入りの真実もどきに、あまりにも安直に飛びつくだけだ。

 誰もが投げやりで、斜に構える。覚め切った、皮肉な虚無主義ニヒリズムが支配する。
 しち面倒くさい、検証などは放棄した。一喝し、罵りあうことはあっても、真剣に刃を交わすことはもうない。公正な議論の場は、すっかり姿を消した。
 これが世に言う、ポスト真実の時代なのだ。

 そうだった。
 就任式の閑散たる聴衆を大群衆と言いなしたとき、コンウェイは言った。
  ――That’s an alternative fact.
 もちろん、人は言うであろう。それは「嘘」というのと、どう違うのか。ただ追い込まれた挙げ句に開き直って、体のよい言葉で言い換えただけではないのか、と。
 だがしかし、思い出してほしい。何かが「嘘」と呼ばれるのは、その逆の「本当」のものが、存在するからである。

 もし今のこの世に、「真実」なるものが、一つもないとしたら。――あるいは何が真実であるか、少しもわからないとしたら。だとしたら、あふれかえる真実もどきの情報の、どの一つとして「嘘」とは呼びえない。すべてはただ公平に、” alternative fact” なのである。 

 それぞれの人間が、それぞれの真実もどきをついばみながら、それぞれの世界に――” alternative world” に生きている。
 同じ地球の上にいながら、めいめいが 別個の、ばらばらの生を生きる。
 そんな分断が、当たり前の風景となって、何の疑問も抱かれない時代が到来したのだ。
 私のような20世紀に生きた人間にとっては、それはまるでSFのような、おそろしい悪夢の世界だった。
 その病根を治癒するすべは、どこにも見当たらない。
 このまま進んだら、私たちは一体どうなってしまうのか。――その行方を想像することは、もはや私にはかなわない。……