私たちが亡くした者。そして悼む者。
たがしかし、本当は誰一人、死んでなどいないのだ。
*
一つ頭の体操をしてみよう。
一本の、無限に延びる直線があるとする。1次元の世界である。
その直線が無数に寄り集まって、面を作る。2本の座標の軸を持つ、2次元の世界だ。
今度はその面が無数に重なると、私たちの住むこの世界ができあがる。3つの座標に規定される、3次元の空間である。
さてそこにもう一本、別の座標の軸を加えてみよう。おそらくは「時間」の座標軸だ。
その時間の軸に沿って、いくつもの三次元の空間を、次々と並べていく。
もちろん私たちの感覚は、その姿をとらえることはできない。だが私たちの知性には、十分に理解が可能だった。
そうだった。
かつて面を重ねることで、三次元の世界を作ったように。今度はその三次元の、空間のブロックが時間によって連なって、もう一つ上の、4次元の時空を構成するのだ。
それが神の作った、この宇宙の実相だった。
*
私たちが生きる「現在」のこの空間は、この4次元の宇宙を構成する、無数の時空のブロックの一つでしかない。――
もちろん座標の軸には、上下も前後もない。
ただ私たちは、自分たちの住むこの世界を、座標の先端と思い込む。
そしてその「下」の時空を、過去と呼ぶ。
それは過ぎ去ったもの。消え果てたもの。もはやそこにはないもの。――そしてそこに「かつてあった」者を亡くして悼み、老いたと嘆く。
だがしかし、それはけっして、そうではないのだ。
私たちが「過去」と呼ぶその時空も、この4次元の宇宙を構成する、無数の時空の部品の一つだった。
だとしたらそれらもまた、何一つ変わりはしない。これまでのいつとも同じように、そこにあり続けるのだ。
たとえば、私たちは書物を繰る。
めくってしまったページはもはや、目の前にはない。今は読むことはできない。
だがそれはけっして、消え去ったわけではない。本のあちらの半分に積み重なって、少しも変わらずそこにあった。
過去と呼ばれるものたちも、きっと同じだった。
私たちの五感は、今それを知覚することはできない。だがそれにもかかわらず、それらはこれまでのいつとも変わらず、そこにあった。
変わったのは、ただ私たちの意識だった。
時空を走査する私たちの意識が、いつしかそこを過ぎ。そこから追われ。ただ一時だけ、帰るたつきを失くしているだけなのだ。
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だとしたらもし帰る地図を、帰る船を、再び手にすることができたら、――
(話は次回に続く)