(話は前回に続く)
人の世のことに、話を戻そう。
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自分勝手な人間をつかまえて、唯我独尊などと言う。「あいつは世界が、自分を中心に回っていると思っている」と嘆く。
人間は宇宙の片隅の、芥子粒のような存在だ。個人は社会の一員だ、と諭す。――
だがしかし、私たちが聞かされてきたそんなすべての物語は、みんな取るに足らないたわごとにすぎない。
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「自分」と「自分でないもの」。
そんな二項対立の中で、「自分」はいつでも、少なくとも世界の半ばを占める、巨大な領域だった。
世界の存在と、それについての私の意識は、常に一対一に対応している。
それは世界が、意識を生んだのではない。その逆に、意識が世界を映し出す。――意識が夢見る幻を、ただ世界と呼びなすのだ。
生まれてこの方、ずっと見続けてきた自伝の映画の、主役はもちろん「私」だった。
そこでは愛する人ですら、舞台を彩る脇役でしかない。
今しも通りを横切ったあの人物は、せいぜい千円札の謝礼で出演した、ただのエキストラなのだ。
もちろん主人公の死とともに、映画は終わってしまう。
「私」が死ぬことがあったとして、その後にはもはや世界は存在しない。
電灯が消えるように、宇宙は晦冥に包まれる。すべてがその瞬間に、消え果てるのだ。
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そんな私の物言いを、あなたは独善となじる。狂気の沙汰とあきれ果てる。
だがしかし、たとえどんなに不服だろうと、あなたは私の唯我論に――天動説に、けっして反論することはできない。
そうなのだ。
けっしてリンゴが、地面に落ちるのではない。地面がリンゴに落ちるのだ。
太陽が、地球の周りをめぐる。
宇宙の中心にあって統べるもの。それはいつでも、この「私」なのだ。――