地球の方が、太陽の周りを回っているのです、と小学校で習う。
そんなことも知らなかった、昔の人の愚かさを笑う。
だがその実、間違っているのは、あなたの方かもしれない。
そうして鬼の首でも取ったように、得意がるとき。あなたは、太陽が動くと信じて疑わなかった彼らと、少なくとも同じくらいに蒙昧なのだ。
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考えてもみたまえ。
たとえばあなたと誰かが、人混みで鉢合わせしたとする。
ぶつかったのはお前の方だろう、と熱くなって互いに罵りあう。あなたの語気に、たまたま相手がひるんだというので、勝ち誇っている。
だがもちろん、二人のどちらも正しくはない。
あなたを基準に、事態を捉えれば。確かにこちらは動いていないのに、相手がぶつかってきた。だが逆に相手を中心に考えれば、ぶつかってきたのは、まさしくあなたの方なのだ。
すべては視点の違いにすぎず、本当にそこにあるのはただ、お互いの位置関係が変化したという、ただその事実だけなのだ。
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ちょうどそれと同じように。
宇宙に何か絶対的な、中心があるわけではない。それにふさわしい、天体もない。
どこに座標の原点を置き、どう分析するかは、いつでも任意なのだ。
何かが止まっていて、何かが動いている、というようなことはない。そこにあるのはやはり、ただの相対的な、位置関係にすぎない。
もちろん「すべてが動いている」というままだと、現象の記述が難しい。だから仮に、何か一つを不動の中心であるかのように見立てて、説明を組み立てているのだ。
仮に太陽が止まっているとすれば、地球がその周りに円を描く。仮に地球が止まっているとすれば、太陽がその周りに円を描く。すべてはただ視点の、――相対性の問題であり、どちらの説明にも優劣などあろうはずもないのだ。
座標の設定は、いつでも任意である。その意味では天動説も、地動説も同じように正しい。だがもしその座標が、絶対のものであると信じこんているとしたら。どちらの説もまた、同じくらい笑止な勘違いなのだ。
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ガリレオ以来、天動説はすたれ、地動説が流行った。
だがそれは、けっして地動説が「正しい」からではない。
ただその「平明さ」を、科学が好んだからだ
確かにその方が、話はわかりやすくなる。
仮に地球が回っているとした方が、いくつかの事柄が、多少簡潔に記述できる。
たとえば他の惑星やら、その衛星やらに起きる現象が。あるいは引力関係の模式図が。いくぶん単純化して表せる。
いわばまだ知恵の足りない、小学生でもわかるように。あくまで教科書的な配慮から、科学は地動説を選んだのだ。
だがそれは、「正しい」ということとは違う。
単純なものが正しくて、複雑なものが間違っている、ということはない。
それはかつて、私が述べた通りだ。(参照)
複雑で手ごわく思えるものも、ただ私たち程度の知能には、そうであるにすぎない。
謎の記号を何行も並べた、あの「複雑な」宇宙の方程式も、もちろんけっして間違ってなどいない。
それどころか、もしもっとずっと知的な生命体がいて、同じ式を眺めたとしたら。それもまた中学で習った一次式と、同じくらい平明に見えるのにちがいないのだ。
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だとしたらやはり、天動説はけっして間違ってなどいない。――
太陽が回っているか。地球が回っているか。
それはただ説明における、視点の違いにすぎず、本当はどちらでもいいことなのだ。
どうでもいいことに命を懸けた、ガリレオの闘いは道化にすぎない。
そして科学の勝利の物語に、こうして感動して吠えているあなたは、――きっとただただ、頭が悪いのです。……